2018年7月15日日曜日

根室空襲犠牲者追悼の集い

2018年7月15日


根室空襲犠牲者の追悼の集いが、根室市内の鳴海公園にある『平和祈念の碑』の前で開催されました
根室空襲研究会とねむろ九条の会の共催です
あいにくの悪天候でしたが雨の中、空襲犠牲者約30名の空襲犠牲者のご遺族の方々をはじめとする市民のみなさんと、また今回は新たに東裕丸で犠牲となった方のうち新たにお名前が判明した方のご遺族が宮城県から列席されました


平和祈念の碑に向かい亡くなられた方への祈りをささげるとともに、平和な時代をまもるための決意をあらたにしました

2018年7月8日日曜日

マンガで知る 根室空襲 当時の小学生が体験した集団疎開記より

東京在住の石崎氏が、戦時中に疎開先で体験された自身の根室空襲の手記を、石崎さんの友人の稲葉氏が漫画化し、その原稿を根室市の福田氏が書籍化されました
ねむろ「九条の会」にも寄贈していただきましたので、ご紹介いたします
ありがとうございます

2018年7月7日 釧路新聞

2018年7月7日土曜日

あれから73年 根室空襲犠牲者 追悼のつどい

根室空襲犠牲者の追悼のつどいが、根室空襲研究会とねむろ「九条の会」の共催で行われます
ぜひ皆さん、ご参加ください!

日時 2018年7月15日(日)午前11時~
場所 根室市鳴海公園 平和祈念の碑 前

2018年7月9日 根室新聞

2018年7月4日水曜日

自衛隊九条明記と家族の助け合い明文化の意味するもの

2018年5月17日

ねむろ「九条の会」と戦争させない・9条壊すな!総がかり行動根室実行委員会は共催で、憲法記念特別講演を開催しまし、市民45名が参加しました。
「自衛隊九条明記と家族の助け合い明文化の意味するもの」と題し、室蘭工業大学で憲法学と家族法を専門にする清末愛砂准教授が講演を行いました。

はじめのあいさつで、ねむろ「九条の会」の細川代表世話人は「今日のお話の中で、もう一度自分の中で憲法を考えてほしい。平和を決めるのは私たち国民一人一人の意識。関心を深めて、無関心の方々に一人でも平和憲法の大事さを伝えることの大事な時期に来ている」と参加者に呼びかけました。

清末准教授の講演

 実祖父を戦時中に無くし、戦争に対して強い憎しみをもつ家庭で、母は「軍隊は絶対に民衆を守らない」と何度も繰り返し言っていた。そのため軍隊への恐怖心が私の中に染みついている。それをいかに理論的に考えていく中で、私は憲法9条と24条が日本の平和主義を築いている両輪であるということに気が付いた。
 自衛隊が憲法に明記されるなら、日本の軍事主義あるいは日本社会の軍事化がどんどん進んでいくだろう。憲法が改正されたら次の日からそうなるということではなく、1日1日の積み重ねで大変な軍事国家となる。そういった長いスパンで憲法改正が持つ意味を一人一人が主体的に考えなくてはならない。
 
パレスチナ時代の記憶
 2002年、大学院生だった私はパレスチナの難民キャンプに住んでいた時、イスラエル軍の攻撃を受けていた。イスラエルの攻撃は夜中の2時くらいに行われる。そのすごい爆撃音が集中豪雨の音に聞こえる。窓から月明かりが見えるのに大雨が降っているようだった。
この時の凄まじい爆撃の凄まじい恐怖心を私は安倍さんに言いたい。あなたは戦場のリアリティを分からないでしょう。死ぬかもしれないと思った時に尻や背中を撃ってほしくない。頭を撃ってほしいと思う。一瞬で楽に死ねる。

 様々な国の軍事行動は、まさに自衛の名のもとに行われる。国防や自衛という言葉によって相手に銃を向けて威嚇することが正当化される。そういった方向に私たちは行くのか。
例えばシリアのように爆撃を受けている人たちは戦争のない社会に行きたいと願っている。それなのに、なぜ私たちはいとも簡単にそれを捨てようとするのか。

自衛隊の明文化の危険性
「9条の2」の条文案は、いくつかの案があったが最悪のモノが出た。「必要な自衛の措置をとることを妨げず」とあり、自衛の名の下でいろいろなことが行われることを可能にする。必要最小限度などという言葉も無くし、実力組織として自衛隊を保持する、としている。如何様にも解釈できる条文としていることに私は危険を感じている。
 「今ある自衛隊を追認するだけではないか」という意見は違う。特に前法と後法が矛盾する場合に「後法優位の原則」がある。たとえ9条が残っても9条の2が出来たら、自衛のための自衛隊の活動がどんどん優先されることになる。
安保法制によって自衛隊は世界中どこでも武力行使が出来るという法律のもとにあるため、その状態で憲法に明記されると、安倍政権のいう積極的平和主義-武力によって安全保障を獲得しようとする軍事主義-のもとで、より一層の海外派遣される可能性がある。
自衛隊が憲法に明記されていないことで支障があるのか。自衛隊が違憲だとしても、明記することは危険。
 軍事組織がもつ本来的に国防の名のもとに人を殺す、人を残酷にさせるという本質を理解しておかないと、銃を向けられてからでは遅い。その前に予防する必要がある。

9条の精神
 南北会談が4月末にされた。朝鮮戦争を終わらせようと努力していることは、外交によって平和を達成することを現実に示した。これは9条の精神そのものだ。
 武力による解決や武力による防衛は、周囲の緊張を高める。自衛隊の憲法明記は東アジアの緊張を高め、朝鮮半島の方向と逆方向となる。対話による外交を否定してはいけない。今回の南北会談のように、対話における外交という国際関係の常識を国家政策の基本として打ち出していかなければならない。

憲法9条と24条は平和主義の両輪
 憲法24条は、家庭生活における個人の尊厳と両性の平等という家族に関係する条文。9条とともに平和主義を支える両輪。
 大日本帝国は天皇を唯一の主権者とする。国民は家来である臣民。大日本帝国は天皇を父とする一つの大きな家族ともとらえられている。
 大日本帝国憲法は個人を徹底的に否定し、基礎的な単位を「家」においていた。明治民法のもとで家制度と夫婦の不平等(夫による妻の支配権)が明確に法律上あった国。各家の戸主は原則長男による家督相続される。戸主は同じ家の中にいる構成員に対して一定の権限をもつ。男性支配の秩序がある国家。
 戦後に明治民法の家制度が廃止される。日本国憲法13条個人の尊重、14条法の下の平等、そして24条によって民法が大きく変わる。
 家制度が廃止され、兄弟間の平等相続や男女の合意のみに基づく婚姻-男女の合意「のみ」なので、他者からの介入なくその人の合意だけでよい-、夫婦間の平等など戦後大きく変わった。それでもなお民法上はいろいろなジェンダー差別が残っている。
ここまでが24条を家族条項としての理解の一部とされている。
私は家族に関する条文というだけでなく、9条ととともに平和主義を支える二つの両輪と考えている。

 大日本帝国時代の軍事主義は、愛国心の強制によって国民を動員していった。もう一つ軍事主義、植民地支配を支えていったものとして-愛国心ほどは強くないが-、家制度や夫婦間の不平等も明確に大日本帝国の制度を支えていた。
憲法24条は軍事支配を支えていた一つの家制度を廃止したことから、平和主義と密接に結びつくもの。24条は各家族に対してどのようなことを求めているのか。積極的な解釈を私は見出している。
 精神分析家のアリス・ミラーは、「魂の殺人」という本の中で、権威主義的な家族の中で児童虐待をうけてきた子どもの中には、将来的に残虐的な事件を起こす場合があると指摘する。
 家族内の暴力こそが社会の暴力を作り上げている、ということを私の中では平和主義を考える着眼点としている。

憲法24条が求める家族
 暴力に依拠するような人材を作らないことを憲法24条は求めている。大日本帝国のあり方を否定して、その結果として生まれた日本国憲法のもとで民法は抜本的に改正され、家制度が廃止された。
 その重要な根拠条文の24条は、まさに戦う兵士を含む暴力に依拠しない人間を育てる場として家族をとらえている。あるいは軍国主義・愛国心を強制しようとする国家に従順にならない人間を育てることを求めている。強権的な政府を生まない努力をする人材を育てる場としての家族を求めている。強権的な政府が誕生した場合には、それを冷静に考えて抵抗できる人間を育てる場としての家族を求めている。
 こうしたことから、9条と24条を合わせて平和主義の重要な部分を構成する。もちろんそれだけでなく13条(個人の尊重)、14条(法の下の平等)、25条(生存権)、あるいは平和的生存権に言及している前文といったものから作られる。
 これらに共通するキーワードは「非暴力」。非暴力により社会を恐怖と欠乏から解放することに平和の意味がある、と私はとらえている。単に9条によって戦争と武力行使をしないということが平和をもたらすわけでは無く。貧困や家庭内の暴力や差別に置かれている人にとっては、戦争状態でなくても日々の生活は決して安全ではない。家庭内の暴力が無くなり、家庭が非暴力の人材を育てることによって、平和主義が作られる。

これからの改憲のターゲットに
 24条は保守改憲派は現在に至るまで改憲のターゲットとしてきた。しかし護憲運動も含めて24条は注目されてこなかった。注目が低いために改憲のハードルが低い。家族で助け合う、家族を大切と憲法にいれると言うと納得しやすい。しかし家族の助け合いを憲法に入れることは義務化につながる。憲法は私たちの人権を守るものであり、義務を与えるものではない。
 家族の助け合いは、すでにこの国は最大限求めている。それは社会保障がきちんとしていないから。家族の助け合いを憲法にいれると社会福祉はどんどん否定されていく。
 改憲派は24条の「個人の尊厳」や「両性の本質的平等」といった言葉は、家族を破壊する、調和を脅かすと主張する。しかし家族は暴力の温床にもなっている。家族の助けいの名のもとにいろいろな矛盾・暴力が隠され、貧困が押し付けられてきた。家族の壁の中で暴力から逃げられない人もいる。
 24条を将来的に変えようとする動きが進んでいる。家庭教育支援法案は来年の通常国会で上程される恐れがある。家庭教育の名のもとに国家が家族に介入して、一律に愛国心を植え付ける教育を押し付ける可能性がある。

自由で民主的な社会をめざして
 自衛隊の憲法明記は「軍事化された社会」を作る。それは軍事組織の存在が増し、社会の軍事化を促進する。国防の呼びかけにより軍事が増強し、軍事研究が進んでいく。大日本帝国時代のように愛国心を強制する教育や家庭教育の中に愛国心を植え付ける教育を進める社会が生まれていく。家族のきずなの名のもとに、戦う兵士を支える家族・社会が作られる。
 それと真逆に憲法が生きている社会は、「自由で民主的な社会」。個人の尊重がなされる社会。個人の尊厳が守られる社会。ジェンダー平等&正義が謳われる社会。非暴力を求める社会。
 私たちはその分岐点に居る。
 限られた時間だが今までの100倍くらいの力で改憲にNOと言っていかなければならない。
 私も含めて憲法研究者の多くが絶対に改憲が反対というわけでは無い。今の改憲保守が言う改憲は認められないが、個別の法律では対応できず、それが社会の民主化をより尊重するような改憲であれば当然すべきだ。憲法の中には改憲手続きがあり、それを最初から否定することはあり得ない。そうではなく軍事化された社会を広げる改憲は何が何でも食い止めなければならない。