2015年5月6日水曜日

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ④/5

2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します ④/5


 2013年12月、大阪府に土橋明次先生の娘を訪ねた。土橋先生は旭川で逮捕され有罪判決を受けた。娘が3歳の時、目の前で土橋先生は特高に連行された。その後2000年に亡くなるまで事件のことを家族に語ることはなかったが、死後遺品を整理していたときに、隠すように古い書類が出てきた。予審の調書の束。癖字でほとんど読むことができない。原本ではなくおそらく複写と思われる。戦後司法省は治安維持法関係の書類は全部廃棄するよう命じているため、この事件の記録はほとんど残っていない。どういう経緯で土橋先生が調書の複写を入手したのかは定かではない。何が書かれているかわからなかったが、娘は10年この書類の束を眺め続けた。書類のなかに土橋さんが「共産主義」であるという件があったが、土橋さんはそういう思想ではない。だからこれは父親の発言ではなく、勝手に書かれたものではないか、と娘は考えていた。
 書類は読めたとしても辛いことが書いてあるのは間違いない。しかし遺族にとって、何が悪いとされたのか、何が罪とされたのか、刑務所でどんな取り調べがあったのか、全く知らない。何があったのかきちんと知りたい、と言っていた。きちんとした事件の記録がなく、何もわからないことに対する恐怖があるのではないか。
 751枚の書類をカメラで接写して持ち帰ったが、自力で解読するのは不可能だった。後日、釧路市内で講演をした時に「解読依頼」を呼び掛けたところ、釧路の弁護士と治安維持法に詳しい元高校教師が解読をおこない、半年後に解読された清書が完成した。
 清書を速達で遺族のもとに送ると、遺族は泣きながら、自分たちの家族が抱えていた、埋もれかけていた歴史を解読しようと手を挙げてくれたことがうれしい、とお話しされた。私が新聞記者を続けている意味はこれだ、と思った。忘れられない宝物になった。

 旭川の三浦綾子記念館に行ったときに偶然、土橋先生の教え子にあった。土橋先生が逮捕されたと聞いて何回も手紙を出した、と言っていた。面会も文通も制限されていたと聞いていた私はその話を疑ったが、旭川から一度も出たことのないその教え子は89歳になった今でも釧路刑務所の住所をはっきりと覚えていた。他の先生からのアドバイスで「土橋先生、私は元気です」とだけ書いた手紙を何回も出した。
 私は出来上がった書籍をこの教え子さんにも送った。本を読んだ教え子はどうして土橋先生が逮捕されたのか、はじめて私は知りました、と。戦後釈放されてからクラス会などで晩年まで交流は続いていたが、封印されたように事件のことには触れなかった。私は何も知らない恐ろしさ、を改めて感じた。

 松本五郎先生は生活図画事件の犠牲者。獄中メモの記事を見て自分の経験と同じだと語った。狭い独房の中コンクリートに囲まれ、何か月も取り調べもされず、誰とも口をきかず、面会もできない。食事は沢庵だけのごはん。ノイローゼのようになって、もうどうでもよくなる。殴る蹴るとはまた別な精神的な拷問。一日も早くこの暮らしから出たくて共産主義者だと、うその供述をした。
 「不当な取り調べを受け、予審などでも公正な審議は行われなかった。しかし田舎の師範学校の若造の絵に社会への影響力など無いと捜査当局側もわかっていたはずで、私たちを有罪にすることで物言えぬ国民をつくることがねらいだったのではないか。思想犯は非国民というレッテルを貼れば、みんな何も言えなくなる。誰かが何かを言えば戦争鼓舞の妨げになる。だから誰にも国の批判はさせない。負け戦だと国民に知られることを防がなくてはならない。そういう国の意図が生活綴方事件や生活図画事件の背景にあったと考えられる。私は自分の絵のいったい何が罪だったのか、きちんと説明されないまま、有罪判決をうけた。その悔しさは一生忘れられない。弾圧で苦しめられた人の深い傷が世に知られないままでいれば、いつか歴史が繰り返されてしまうかもしれない。私には何も言えず汚名を着せられたまま亡くなった仲間が何人もいる。私は治安維持法による弾圧を体験した残り少ない生存者の一人となった今、社会に真実を伝え、元来た道を歩んではいけないと訴える義務があると感じている」と松本先生は言う。
 これが、なぜ作文教育をした先生方が逮捕されたのか、ということの答えの一つ、仮説のように思えてならない。

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