2015年5月7日木曜日

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ⑤/5

2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します (⑤/5)



 これらの取材の中で獄中メモのほかに貴重な資料を入手した。生活図画事件で取り調べに立ち会った元書記官の証言を収録したテープを入手した。
 このテープの中で元書記官は「かわいそうだと思ったことはない。国逆らったって仕方ない。馬鹿なことをしているな」と。テープの中の元書記官の声は悪びれてなく、サラッと発言していた。この元書記官がひどい人という意味ではなく、書記官として取り調べの仕事を遂行したにすぎない。
 そうだとすると、この事件はいったい誰が被害者で、誰が加害者なのか。被害者が不当な取り調べで脅され苦しめられ2年半もの拘禁された先生方だとすると、加害者は取り調べをした警察や検事だろうか? でも彼らは自分の仕事を黙々と進めていただけかもしれない。
 入手した様々な記録の中には、取り調べをした検事の戦後の証言もあった。のちに弁護士となった検事を坂本さんたちが問い詰めた資料。弁護士となった元検事は、今の時代も同じことをするかと聞かれ、今はしない、当時の法律に従って行っていただけだ、とサラッと言っていた。
 彼らもまた、戦争の犠牲者の一人かもしれないと、取材を進めていく中で強く思った。
 ナチスのアイヒマンの裁判に関するハンナ・アーレントという人の記録を見たことがあるだろうか? アーレントは、アイヒマンが罪だというのではなく彼の思考を停止させた戦争そのものが罪だと指摘し、ユダヤ人から非難をうけた。私は取材をするなかで、アーレントが指摘した思考を停止させた時代の罪ということを強く感じた。
 前述の元書記官は、中国で死亡者を出すような拷問にも立ち会っており、その証言をしたテープでは彼は涙をしていた。人が死ぬという重みがあるからだろう。しかし生活図画事件ではカラッとしていた。「かわいそうだと思ったことはない」という言葉を私は忘れることが出来ない。ご遺族を取材して見てきた涙と対照的だった。それが時代の罪なのか、と強く考えさせられた。

 この取材で多くの方の協力をうけた。標茶の方は新聞記事を見てたくさんの手紙をくれた。この取材をはじめてからどんどんいろんな方が協力してくれるようになった。自分たちもどんどんこの記録を掘り起こして、残してほしいという思いが伝わった。20年の記者生活の中で初めての経験。
 昨年亡くなったその方から「俺たちが死ぬ前に早く話を聞け。一日も早く一人でも多くの人の話を聞け」と。「あんたの仕事はそれを記録して、聞くだけじゃくて伝えること。記事だとすぐ古新聞になるから、本にして後世に伝えろ」と言われた。
 ひとりでも多くの人に一日でも早く伝えることが、本にまとめることの意味。あやまった歴史を繰り返さないためにそうしてくれ、と彼が私に言った宿題を守るために、本を倉庫に眠らせたままでなく多くの人に伝えるために走り続けてきた。
 
 どうか一緒に語り伝え、平和な日本が、子どもたちが先生がいないと泣くことのない、平和な時代を続くことを切に願っている。


※以上は、佐竹記者がご講演された内容を、ねむろ「九条の会」の事務局がメモ書きしたものであり、正式な講演記録等ではありません。当日のお話のおおまなか雰囲気を読み取っていただければ幸いです。また北海道綴方教育連盟事件に興味をお持ちの方は、ぜひこの機会に佐竹記者の著作『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』をお読み下さい。

2015年5月6日水曜日

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ④/5

2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します ④/5


 2013年12月、大阪府に土橋明次先生の娘を訪ねた。土橋先生は旭川で逮捕され有罪判決を受けた。娘が3歳の時、目の前で土橋先生は特高に連行された。その後2000年に亡くなるまで事件のことを家族に語ることはなかったが、死後遺品を整理していたときに、隠すように古い書類が出てきた。予審の調書の束。癖字でほとんど読むことができない。原本ではなくおそらく複写と思われる。戦後司法省は治安維持法関係の書類は全部廃棄するよう命じているため、この事件の記録はほとんど残っていない。どういう経緯で土橋先生が調書の複写を入手したのかは定かではない。何が書かれているかわからなかったが、娘は10年この書類の束を眺め続けた。書類のなかに土橋さんが「共産主義」であるという件があったが、土橋さんはそういう思想ではない。だからこれは父親の発言ではなく、勝手に書かれたものではないか、と娘は考えていた。
 書類は読めたとしても辛いことが書いてあるのは間違いない。しかし遺族にとって、何が悪いとされたのか、何が罪とされたのか、刑務所でどんな取り調べがあったのか、全く知らない。何があったのかきちんと知りたい、と言っていた。きちんとした事件の記録がなく、何もわからないことに対する恐怖があるのではないか。
 751枚の書類をカメラで接写して持ち帰ったが、自力で解読するのは不可能だった。後日、釧路市内で講演をした時に「解読依頼」を呼び掛けたところ、釧路の弁護士と治安維持法に詳しい元高校教師が解読をおこない、半年後に解読された清書が完成した。
 清書を速達で遺族のもとに送ると、遺族は泣きながら、自分たちの家族が抱えていた、埋もれかけていた歴史を解読しようと手を挙げてくれたことがうれしい、とお話しされた。私が新聞記者を続けている意味はこれだ、と思った。忘れられない宝物になった。

 旭川の三浦綾子記念館に行ったときに偶然、土橋先生の教え子にあった。土橋先生が逮捕されたと聞いて何回も手紙を出した、と言っていた。面会も文通も制限されていたと聞いていた私はその話を疑ったが、旭川から一度も出たことのないその教え子は89歳になった今でも釧路刑務所の住所をはっきりと覚えていた。他の先生からのアドバイスで「土橋先生、私は元気です」とだけ書いた手紙を何回も出した。
 私は出来上がった書籍をこの教え子さんにも送った。本を読んだ教え子はどうして土橋先生が逮捕されたのか、はじめて私は知りました、と。戦後釈放されてからクラス会などで晩年まで交流は続いていたが、封印されたように事件のことには触れなかった。私は何も知らない恐ろしさ、を改めて感じた。

 松本五郎先生は生活図画事件の犠牲者。獄中メモの記事を見て自分の経験と同じだと語った。狭い独房の中コンクリートに囲まれ、何か月も取り調べもされず、誰とも口をきかず、面会もできない。食事は沢庵だけのごはん。ノイローゼのようになって、もうどうでもよくなる。殴る蹴るとはまた別な精神的な拷問。一日も早くこの暮らしから出たくて共産主義者だと、うその供述をした。
 「不当な取り調べを受け、予審などでも公正な審議は行われなかった。しかし田舎の師範学校の若造の絵に社会への影響力など無いと捜査当局側もわかっていたはずで、私たちを有罪にすることで物言えぬ国民をつくることがねらいだったのではないか。思想犯は非国民というレッテルを貼れば、みんな何も言えなくなる。誰かが何かを言えば戦争鼓舞の妨げになる。だから誰にも国の批判はさせない。負け戦だと国民に知られることを防がなくてはならない。そういう国の意図が生活綴方事件や生活図画事件の背景にあったと考えられる。私は自分の絵のいったい何が罪だったのか、きちんと説明されないまま、有罪判決をうけた。その悔しさは一生忘れられない。弾圧で苦しめられた人の深い傷が世に知られないままでいれば、いつか歴史が繰り返されてしまうかもしれない。私には何も言えず汚名を着せられたまま亡くなった仲間が何人もいる。私は治安維持法による弾圧を体験した残り少ない生存者の一人となった今、社会に真実を伝え、元来た道を歩んではいけないと訴える義務があると感じている」と松本先生は言う。
 これが、なぜ作文教育をした先生方が逮捕されたのか、ということの答えの一つ、仮説のように思えてならない。

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ③/5



2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します ③/5

 私は起訴された11人の先生方のうち、遺族確認ができた人しか記事に名前を入れていない。遺族にとって戦後70年たっても事件はまだ終わっていない。実際に自分の父親の名前はださないでくれ、と言われた人もいる。特に本州に移り住んだ人にとっては現代でも、縁談に影響がある、子どもの就職や人事に影響がある、といわれる。
 根室の厚床小学校の先生について、本に記述したが名前を入れていないのは、遺族を発見することができなかったから。12人起訴されて11人有罪となったが、残りの一人は無罪になったのではなく、この厚床小学校の先生が亡くなったため。
 この先生が逮捕されたのは十勝の小学校に赴任後だったが、根室の厚床小学校にいた時に、生活をありのままに書く綴方教育と、生活をありのままに絵にする生活図画教育を実践していた。現在白糠町にいる教え子は、高等小学校に行く学費が払えずにいたが、学費を「出世払いでいい」と言って先生が払ってくれた。
 小学校を卒業した教え子のもとにある夜、先生の奥さんがやってきて、だまって手を握られ、奥さんはそのまま走り去った。握られた手を開けるとチリ紙が広がった。そのチリ紙には、助けてくれ、と鉛筆で走り書きがしてあった。町内会長に相談したが、「そんなものは捨ててしまえ。お前も逮捕される。町内全部に取調べされて迷惑だ。先生の作文なども全部燃やせ」、と言われた。
 先生が危篤のため仮釈放された後、先生の父親から電話があり「病気だから会いに来てくれないか」と言われたが、周囲の反対にあって会いに行くことが出来なかった。亡くなってしばらくたってから訃報を聞いた。教え子は根室の森でひとりで泣いた。
 先生を見捨ててしまったという思いは、ずっとその教え子の心に引っかかっている。なぜ先生が捕まったのかいまだ分からないが、分からないまま先生を見捨ててしまった自分が一生悔やまれる、と語っていた。

 昭和18年の旧文部省の資料に、生活主義教育運動の問題が記載されており、例として厚床小学校の文集が掲載されている。文部省は資本主義社会の矛盾をせしめる作文だ、作文に教師が批評をのせたことに対しても「批評を通じて左翼意識の高揚をさせている」と指摘し、こういった不祥事が再び発生しないよう求めている。そして有害なる教育思想を払しょくし、皇国史観の教育観の樹立と実践に全力を尽くさなければならない、としている。
 この作文は果たして不祥事なのだろうか?

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ②/5


2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します ②/5

 治安維持法は1925年(大正14年)、第一次世界大戦後に国体の変革を目的とする結社や行動を処罰するための法律として制定された。当初は共産党や革命的運動を取り締まることを目的としたが、1930年代に入り徐々に適応範囲が拡大され、教育や文化・芸術の活動まで処罰されるようになった。特高月報には昭和15年くらいから、人形劇、紙芝居、芸術、詩、短歌などが犯罪の項目として並んでいる。
 2013年8月ころから現代の日本では特定秘密保護法の問題があり、私は政治の世界は報道を通して知る範囲だったが、ちょうど自分が治安維持法を調べていると「あれ、なんかニュースに出ている話と似てるぞ」と思うことがあった。
 治安維持法は制定前から国民から反対の声が上がっていたが、それに対して政府は警察や検察が一方的に犯罪だと断定して取り締まることはないと、議会に説明していた。ところが3年後に、議会の承認を得ない緊急勅令で治安維持法を改正し、目的遂行罪を導入した。

 私は前述の終戦企画に綴方事件を取り入れたいと考えた。新聞記事に坂本亮さんの名前を出すためには遺族に承認を取る必要があり、札幌にいる遺族に連絡をとった。遺族は坂本先生が所持していた大量の書籍を道立文学館に寄贈する予定だったが、その中に戦前の作文教育の資料もあると聞き、私は2013年8月20日に札幌に向かった。
 書庫の比較的最近の書類の中に、赤茶けて古ぼけて今にも崩れ落ちそうな書類が挟まっていた。インクがつぶれて何が書いてあるかわからなかったが、記者の勘で何か大事なものが書かれているに違いないと思った。遺族も見たことがない書類。カメラで接写しようとして、手が震えた。
 書類は麻ひもで16枚閉じてあって、両面にびっしり書かれていたが旧字体で書かれたもので、インクも滲んでおりほとんど読み取ることができなかった。そのメモの中で「警察」という字が目に飛び込んできた。「叩く。蹴る。殴る。座らせる。そのうちに自分も妙な気持になり、手記を直され、教えられているうちに赤くなっていった」という一説が読み取れた。
 メモの解読をいろいろな機関に働きかけたが相手にされなかった。仕方なく自分で解読しようとした。解読のためには用語や人間関係なども理解する必要があり、膨大な資料を集め、大変に苦労しながら3か月かけてメモを読み解く作業を行った。解読したものを小樽商大の荻野教授などいろいろな専門家の協力を得て公表した。

 メモの「警察」の項には前述の暴力の記録。「いつまでぐずぐずしているんだ。もう半年になるのではないか。ほかのものはみんなもうおわるぞ」という長期拘禁でおどして警察に都合の良い供述を導こうとしている記録。「検事」の項では、捜査当局に都合の良いように書き直した別な人の調書を読み上げ、「お前もこれと同じなんだろう」と脅した。「改心しない間は1年でも2年でも拘留するぞ、と」。さらに当時は裁判の前に案件を裁判にかけるかどうかを判断するための予審という制度があり、本来的には中立であるべきだがその判事は、こんな調書では検事が困ると言っているとして、書き直すよう脅した。また知らない間に予審の判事が捜査当局に都合の良いように調書を書き直していることも、メモに記載されていた。
 最後に「どこまでもたたかわなければならないと思う」といった裁判にむけての決意の文章も多く書かれていた。逮捕された52人の先生のうち12人が起訴され11人が有罪判決をうけた。このメモは裁判への対策の為に極秘に弁護人等にあてた文だと考えられる。
 綴方教育連盟事件は三浦綾子さんの「銃口」の題材で有名だが、この事件の核心の舞台は釧路だ。道内の先生方は釧路の刑務所にまとめてあつめて拘禁され、釧路地方裁判所で有罪判決をうけた。調書を書き換えた判事や脅した検事の舞台はすべて釧路だ。
 このメモを書いた方は松田文次郎さん。北海道綴方教育連盟のきっかけとなった「ナット売り」という大変情緒的で美しい作品があるが、その作文を指導した先生。この獄中メモは書いてある内容は悲惨だが、文体が非常に美しい。作文教育をおこなう、文章を書くことになれていた人だからこそ、こうしたメモをのこせたのではないかと思う。

北海道新聞 佐竹直子記者の講演 ①/5

北海道新聞 佐竹直子記者の、「2013年11月~2014年6月に北海道新聞夕刊釧路根室版に連載した「獄中メモは問う」をもとに、加筆、再構成した」書籍が、書店などで販売されています。

『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』 北海道新聞社 ¥1,296+税























2015年5月3日、ねむろ「九条の会」の主催による「憲法記念日のつどい」で、佐竹記者が講演された内容の一部分を要約してご紹介します ①/5

 この本は、戦時下に自分の生徒たちに自分たちの身の回りのことをありのままに伝える作文教育をしたということにより、治安維持法違反で有罪判決となった先生たちのお話し。
 あらかじめことわっておくが今の時節に会う問題としてこれをピックアップしたわけでないということを強調して言いたい。私は2013年8月に偶然古いメモを見つけた。それがいつなんのためにこのメモを書いたのかを調べていく過程で、偶然にも国会の特定秘密保護法の審議と時節が重なってきた。私は政治や司法のことを知らないまま、ゼロから調べなおして事実を辿っていった。それだけに記者の意図として、特定秘密保護法と重なるように誘導したり、国に異論を唱えるという意図は全く無い。事実をそのままに綴った本だということを強調したい。このことを通して、みなさんが未来を、これからを考える材料にしていただきたいと思う。

 坂本亮さんは釧路第三尋常小学校の教諭。子ども達に愛された先生だった。この方を私が知ったきっかけは、2013年夏に新聞社の終戦企画のため、教科書の墨塗りについて取材していたとき北海道綴方教育連盟事件のことを聞かされた。
 私はその事件のことをまったく知らず、その日からゼロから調べ始めた。
 昭和15年11月21日の早朝、坂本先生は突然特高警察に連れ去られた。
 
 北海道綴方教育連盟は、1935年(昭和10年)8月に北海道の小学校で作文教育に励んでいた先生方がつくった会。当時の一般的な作文は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」など教科書をそのまま書写することが主流だった。それに対して、自分のくらしをありのままに書いて、お父さんへの気持ち、お母さんへの気持ちをそのまま書いて、子ども達の心を広げようという活動が当時一気に広がった。坂本亮さんはその連盟の中心的存在だった。
 北海道綴方教育連盟事件は、会に加盟していた先生方を中心に作文教育を一生懸命やっていた北海道の先生方が昭和14年から16年にかけて50人を超える大人数が逮捕された事件。そのうち11人が執行猶予つきの有罪判決をうけた。
 誰がいつ逮捕されたのかについて特高月報という記録があり、釧路公立大図書館では昭和9年から終戦直前19年までの記録が残っている。坂本先生は昭和15年11月に逮捕されたが特高月報に記録されている犯罪事項には、北海道綴方教育連盟の指導者として、小学校において特定の教科書なく、教師の創意で子供たちの力を自由に発揮させて…とある。これが資本主義社会の矛盾を自覚せしめ、共産主義を啓発しているとされた。子ども達の力を自由に発揮させることが犯罪事項であると記載されている。
 昭和15年11月に坂本先生ら道内で3人の先生が逮捕されたのをはじめに、翌年16年に大量逮捕があった。このうち起訴までされた先生方は2年半もの間、子ども達への作文指導を理由に拘禁された。逮捕された先生方は北海道全域にわたっている。
 
 なぜ先生方は逮捕されたのか。坂本先生のクラスの学級文集「ひなた」は裁判で有罪の証拠品とされた。どのようなことが書いてあったのか。例えば「父さん」という作文。当時どの家庭も貧しい中、高等中学校に行くのにも学費がかかった。お母さんは中学に行くのにお金がかかるから反対するが、お父さんは「行かないでどうする」と。でも父さんばかり働いでかわいそうだから「ぼく」は中学に行かないで働くと言う…こんな親を思う男の子の気持ちが書かれている。この文集にはこのような当時のくらしを描いた作文がたくさん載っている。それが治安維持法違反に問われる理由になった。
 坂本先生が逮捕されたあと、卒業して中学に進んでいた女生徒が、事件を担当した札幌の弁護士のところまで女の子ばかり5人で、先生の無実を訴える署名を届けに行った。
 その元女生徒を取材する中で「どうして坂本先生が、この文集が、罪になったのか今でもわからない。治安維持法とはいったい何を処罰する法律だったのか」と逆に質問されたが、私は答えることが出来なかった。
 
 私は治安維持法がなんなのかを勉強することからはじめた。

2015年5月5日火曜日

獄中メモは問う ~作文教育が罪とされた時代といまの日本~

2015年5月3日(日) 15:00~ 根室市総合文化会館 第2講座室











今年は戦後70年、憲法施行から68年目をむかえます

ねむろ「九条の会」では、今年も『憲法記念日のつどい』を開催しました
会場いっぱいに市民の方々など約70名近く参加してくださいました
今年は北海道新聞情報サービス釧路編集センター記者の佐竹直子氏を講師に迎えて、戦前の治安維持法による冤罪事件として有名な北海道生活綴方事件について、記念講演を開催しました

ねむろ「九条の会」代表世話人の細川憲了はあいさつで
「今日ほど平和憲法が危うい時代はない。今日は作文教育が罪とされた時代についてお話し頂いて、不当に弾圧された戦前の事実を私たちは理解し、今の日本を考えるきっかけにしたい」と述べました












佐竹記者は2013年11月から2014年6月にかけて北海道新聞夕刊根室釧路版に連載された北海道綴方教育連盟事件を取材した「獄中メモは問う」という記事を担当されました
当時の過酷な取り調べの様子など不条理な弾圧の実態について過去をさかのぼって詳細な取材をもとに書かれています

北海道綴方教育連盟事件について、連載に関わる取材の苦労話も含めて講演をいただきました
軽妙な語り口で、お話に引き込まれます
取材された方との交流のお話には、会場の参加者も思わず涙する様子もみられました
また会場には、厚床小学校に勤務しこの生活綴方事件の犠牲になった先生の教え子だったという市民の方も参加されていました






















この取材を始めたときは北海道生活綴方教育連盟事件について何も知らなかったという佐竹記者は、取材を進めていく中で当時の治安維持法が、現代の特定秘密保護法に関わる状況と似ていると感じるようになったと、いいます

※講演内容については、後日ご報告します






2015年5月4日月曜日

2014年 ねむろ「九条の会」 活動報告


ねむろ「九条の会」は、2014年ではこのような活動をおこなってきました


憲法記念日・特別講演会 
 2014年5月3日(土) 15:00~ 根室市総合文化会館 第2講座室

(1)宮澤・レーン事件と北海道綴方教育連盟・生活図画事件
   - 根室のまつわる事件を透かしてみる秘密保護法の正体 -
   治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 北海道本部会長 宮田 汎 氏
(2)根室でもあった「生活綴方事件」
   元厚床小学校教諭 飯倉 定賢 氏


根室空襲を語り伝える会 2014
 2014年7月15日(火) 18:30~ 根室市総合文化会館 第2講座室
 ( 根室空襲研究会・ねむろ「九条の会」 共同開催 )

(1)突然の空襲、その時町民は
   根室空襲研究会 会長 細川 憲了 氏
(2)DVD(根室支庁戦災調査資料)
  「紙芝居・根室空襲48時間」(根室空襲研究会 編)
(3)根室空襲の体験を語る
  ①全焼した病院を後に山中をさ迷う
   元看護婦 坂下 マツヱ 氏
  ②故郷を焼かれて
   筆者 元大阪大学教授 佐々木 健 氏
   (朗読 根室音訳奉仕の会 高橋 朱 氏)


集団的自衛権に反対するねむろ「九条の会」学習会
 2014年8月26日(火) 18:30~ 根室市総合文化会館 第3講座室
  
憲法と集団的自衛権
   北海道新聞 編集委員 大西 隆雄 氏


集団的自衛権反対 街頭署名行動
 2014年10月12日(日) 14:00~15:00 マルシェ・デ・キッチン前

九条の会の「集団的自衛権行使は海外で戦争することであり、平和憲法の破壊です。憲法9条を守り、生かしてください。」の署名活動に取り組んだ。最終的に根室市全体で2,112筆集約となった。


集団的自衛権反対 「11.20全道集会」 への参加


「平和記念碑(仮称)建立協議会」 への参加
 

ねむろ「九条の会」 アピール

 「憲法九条をまもる」 唯一この一点であらゆる人たちと手をつなぐために2004年6月、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の九氏が呼びかけて生まれた「九条の会」は、それに賛同する各地、各分野の「会」が相次いで産声を上げ、現在全国で五千を超える「九条の会」が結成されたといわれています。

 九氏が呼びかけた「九条の会」アピールは、「憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を『改正』しようとする動きがかつてきない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って『戦争をする国』に変えるところにあります。」と鋭く告発しています。

 日本はアジアへの侵略戦争によって、アジアの人々二千万人、日本国民三百万人を犠牲にした先の大戦の教訓から、武力によらない国際紛争の解決をめざす「平和の国」として、この六十数年世界史の中に確固とした歩みを刻んできました。

 しかし、日本政府はイラク戦争への自衛隊派遣、7月訪米した小泉首相は日米首脳会談で、日本とアメリカの「長期戦争」の出撃基地とし、ともに戦争する国への道をつきすすむことに合意するなど憲法上の拘束を蹂躙しています。これは、被爆国であり、憲法九条をもつ日本を、アメリカの先制攻撃、核兵器使用・脅迫の戦略にひきこむきわめて危険な道です。

 根室においては、1945年7月14日、15日の根室空襲によって、市街地の八割を焼失し、この大戦での確定できる戦災犠牲者数だけでも三百六十七人にも及び、確定できない不明者を加えると数百人が犠牲になるという悲惨な戦争を私たちは経験しました。またこの戦争によって歯舞諸島、色丹島や国後島、択捉島などを失うとともに、戦後とりわけ二百カイリ以降、市民のくらしやまちの経済が逼迫する状況となり、いまだに「北方領土問題」解決の糸口すら見いだせない状況下におかれています。

 根室市は世界有数の野鳥飛来地・風連湖周辺、オホーツク文化などの現存する埋蔵文化数は、全道一、二といわれており「貴重な自然と歴史」を有する誇るべき故郷です。私たちのまちにとって、この優れた自然や歴史と文化の保護、その遺産を後世へ継承するためにも、なによりも平和が大切だと考えています。

 私たちは安心で安全なまちで、いのちとくらしがまもられることを切望し、いつまでも平和に生き続けられる故郷をつくるためにも、世界に誇ることのできる憲法九条をしっかり護ることをここに決意します。そのため根室市民の皆さんのねむろ「九条の会」への積極的な参加を心から呼びかけます。
2006年8月12日

呼びかけ人 北構保男 安達正敏 伊藤久美子 今井良雄 内山隆三 桐沢亨 近藤敬幸 佐藤巧 高田勝 田辺利男 谷藤栄子 成田猛 浜屋勝吉 半田一延 細川憲了 馬緤博正 三浦総造 森紫朗 山本純郎 (順不同)